まずはアコーディオン教室。 練習用の曲は自分の好みに関係なく決まっている。 これをマスターしないと先に進めない。 偉い先生を講師として呼んでもそのコストが高いのでかなりの人数を集める必要がある。 個人へのレッスンはわずか数分でも数千円の授業料を取られる。 練習をしていかないと、あるいはしてもうまくいかないと、「はい次の人」といわれてお終い。 アコーディオンを探している、あるいは買い換えたいという情報が伝わると、自分の趣味と関係なく押し売りのように一方的にアコを押し付けられる。 しがらみの中でこれを断りきれずに買わされる。 たとえ体格が小さくてもでかいアコを押し付けられたりする、それも値段の高いアコを無理やり押し付けられる。
アコーディオンクラブは合奏に重点を置いているところが多く、自分の好きな曲を自由に弾けるようになりたいという人は敬遠される。楽器もイタリー製じゃなくてはダメとか、41鍵・120ベースじゃなきゃダメとか、ひどいところになるとどこどこのメーカーのアコじゃなきゃダメ、とくる。それで、そのグループのリーダーはその上の先生から高く仕入れさせられるものをメンバーに売りつける。 その先生はどこかのメーカーかお店の特約店を兼ねている、ないしはバックマージンをもらっている。 もちろん、ビジネスはビジネスとして正々堂々とどこどこのメーカーないし、どこどこの店と提携している、あるいはそこの販売代理店も兼ねているとうたえばまだしも、そこはそれなんとなくグレーゾーンでアンタッチャブルな部分になったままなのだ。 ところで、日本という人を幸せにしない文化のなかで教育を受けてきたわれわれ自身にも問題があることは認識する必要がある。 自分が一体何をしたいのかというソクラテス的質問に自ら答えと確立された自我意識を持つ必要がある。 まさに、「汝自身を知れ」なのだ。 アコでジャズがやりたい人はジャズをやればいいのだ。アコで歌謡曲を弾きたい人は歌謡曲を弾けばよいのだ。 アコでオーケストラをやりたい人はやればいいのだ。 弾きたい曲があれば弾けばよく、弾きたい曲がなければそれを入れてもらうようにちゃんと要請したり、それでもだめならやらなくてもいいのだ。 アコーディオン教室は学校ではない。 アコーディオンクラブは会社ではない。 あくまで個人の趣味の世界の同好の会なのだ。 同好とは好みを同じにするということであって、好みが違えば同じ行動を強制される必要はないのだ。 理想的なのは違う好みを持つ不特定多数がハーモニーの中で、自由にお互いを尊重しあい、刺激を受けあい、高めあえる状態だと思う。 そのひとつの例外的な試みのひとつが「アコーディオン喫茶かるふーる」であり、おそらく2月26日に福岡でやまぐちまりこさんを発起人として開催される「アコーディオンの交差点」だろう。 札幌の「カフェダイマ」さんもそんな例外的な素敵な場所らしい(今度是非行きたいと思ってます)。 インターネットを見ることができる人はそんな新しいアコのオアシスへ逃避することが可能だが、ネットまではできない方々はどこに行けばよいのかわからないまま悲惨な状態に置かれているようだ。 新しいアコ文化の発展を祈るばかりだ。
